無気力

生まれ育ちに関する話について、開示することは滅多にない。

 

「親に恨み辛みとかないのですか?」

 

そういった問いに対する僕の答えは、以下のようになる。

 

「細かい点は確かにあるのだと思う。それでも根本を辿っていけば『なぜ僕を産み出したのか』ということでしかない。そう捉えると、細かな点についてはどうでもいい」

 

解離による記憶の断片化。18歳ぐらいまでの記憶が曖昧だ。

思い出そうとすれば多少は思い出せるのだが。

 

出生、自分自身の存在への猜疑、というのは捉え方によっては自分の人生そのものに対する絶望とも言える。

 

それほどの諦念の中で、何故それでも前向きに生きているのかーー。

 

「自分自身の遺伝的形質、生まれ育ちなどを客観的に評価して、天井というのは見えてしまっている。でも『何かしらの発達を期待し続けている』。それはある意味、諦めているから。『どうせ何やっても勝ち筋はないから、遊びというか好奇心の探求といった位相で、自分自身のカスタマイズを戯れみたいな感じで面白がっている』といったところですね」。

 

いかんせん学習性無力感が強い。

 

そうなると執着できるものなんてない。

 

富とか社会的な承認の欲求だとか。

 

「何としても手に入れたい」といったものが皆無。

 

「自分自身の発達とカスタマイズ」は何かを手に入れたいから探求している訳ではない。

 

それそのものをしたいから。ただただ内発的な動機によるもの。

 

ありとあらゆる外発的な報酬によらない、内から湧き出る動機でコミットし続けているというのは、幸福なことかもしれない。

 

「自分に社会的なアドバンテージはない」

 

そのような自己認識で生きていて虚無感を覚えることがない、といえば嘘になる。

 

辛という字に横棒を一本足せば、「幸」になる。

幸福と辛いというのは案外紙一重なのかもしれない、と誰かが言っていた。