執着

「誰かに認められたい」という欲求が、兎にも角にも希薄だ。

 

虐待されていた人は不安定な愛着のスタイルを有することが多いらしい。

 

嫌なことをしてきた親に対してなお愛着や承認欲求を抱く、ということがイマイチ腑に落ちない。

 

自分といえば他者への愛着が極めて薄く、自己愛も一般的なそれと大きく異なる。

 

愛着のスタイルをざっくり一言で表すと「虚無」。

 

他者の自由と尊厳については尊重する真っ当なリベラリストを自認しているが、自分自身に対しては「モノ」扱いしているきらいが強い。

 

無論、自己愛がないわけでもない。ただ多くの人のそれとは結構違う。

 

自分自身について特に執着も持てなければ、他人に対してもそんな感じなのだろう。

 

血の繋がった、戸籍上の両親について愛憎というのはほとんどない。

 

「何故産み出したのか」という出生そのものへの憎悪があるだけで、それ以外の感情はまるでない。

 

彼らが路上で野垂れ死んでようが、「死体が転がってるな」程度の感想しかないだろう。

 

そんな僕にも過去にただ一人、執着といった感情が芽生えた人物がいた。

 

その人との関わりが途絶えてから2年ほど経過し、その関係性を言語化・分析してわかったことがある。

 

人生で初めての、唯一の「無条件に近い愛と承認」を与えてくれた、ということ。

 

あれが母性というものなのだろう。

 

ただ僕が未熟だったせいか、実存的な病に対する「魂の救済」には至らなかったけれど。

 

時間が経てば経つほど、「オルタナティブな実親」という偶像化が進行している。

 

ああ、これが「あの人に褒めてもらいたい」「認めてもらいたい」「赦してもらいたい」といった感情か。

 

それ以降、それに匹敵する愛着や執着が芽生えたことはない。

 

ただ、そういった感情が僕の中にもあったのだ、と気がつけたのは大きな収穫だった。