困っていること
何というか「逆」役満という感じだ。
「一つマイナスなこと」があれば「一つプラスなこと」があって帳尻を合わせてくれたらいいのに、どうやら世界は、神様はそうはさせないように働いているらしい。
・C-PTSD
・社会生活における脳機能のディスアドバンテージ諸々
・身体の歪みが激しい
・極度の運動音痴(発達性協調運動障害というやつみたいだ)
並べると暇がない。
社会生活を送る上でただただ劣等な個体だ。
経済合理性の観点で生産性がかなり低い個体。
それでも、辛いことというのは案外それらではない。
逃げ場がないこと。帰る場所がないこと。
それが辛い。逆に言えば「その場」があれば、「劣等な個体」であることはさして大きな問題ではない、のかもしれない。
自分自身を経済合理性の観点でしか評価できない。
無条件の、絶対的な愛を生成できないのは、それらを他者から受けられなかった、からだと思う。
無気力
生まれ育ちに関する話について、開示することは滅多にない。
「親に恨み辛みとかないのですか?」
そういった問いに対する僕の答えは、以下のようになる。
「細かい点は確かにあるのだと思う。それでも根本を辿っていけば『なぜ僕を産み出したのか』ということでしかない。そう捉えると、細かな点についてはどうでもいい」
解離による記憶の断片化。18歳ぐらいまでの記憶が曖昧だ。
思い出そうとすれば多少は思い出せるのだが。
出生、自分自身の存在への猜疑、というのは捉え方によっては自分の人生そのものに対する絶望とも言える。
それほどの諦念の中で、何故それでも前向きに生きているのかーー。
「自分自身の遺伝的形質、生まれ育ちなどを客観的に評価して、天井というのは見えてしまっている。でも『何かしらの発達を期待し続けている』。それはある意味、諦めているから。『どうせ何やっても勝ち筋はないから、遊びというか好奇心の探求といった位相で、自分自身のカスタマイズを戯れみたいな感じで面白がっている』といったところですね」。
いかんせん学習性無力感が強い。
そうなると執着できるものなんてない。
富とか社会的な承認の欲求だとか。
「何としても手に入れたい」といったものが皆無。
「自分自身の発達とカスタマイズ」は何かを手に入れたいから探求している訳ではない。
それそのものをしたいから。ただただ内発的な動機によるもの。
ありとあらゆる外発的な報酬によらない、内から湧き出る動機でコミットし続けているというのは、幸福なことかもしれない。
「自分に社会的なアドバンテージはない」
そのような自己認識で生きていて虚無感を覚えることがない、といえば嘘になる。
辛という字に横棒を一本足せば、「幸」になる。
幸福と辛いというのは案外紙一重なのかもしれない、と誰かが言っていた。
僕の大好きなジミー・バトラー
2020年10月10日
NBA FINALS GAME 5
無敗神話を持つ黒いジャージをまとったレイカーズを撃破した、あの姿が今でも脳裏から離れない。
幼少期から何の心配もなくバスケットボールに邁進できる環境で親からの金銭的、精神的なサポートは「当たり前」といったところか。
一方で13歳にして母に捨てられホームレスになったーー。そんな波乱に富んだ生い立ちでありながらも、Finalsの舞台に立ったプレイヤーがそこにいた。
その姿、気迫、パフォーマンスにただただ息を呑んだ。
ジミー・バトラー。それも僕と同じ1989年生まれ。
NBAの歴代TOP3プレイヤーとされるレブロン率いるレイカーズ。格上のレイカーズをほぼ個人のオフェンス力で撃破。
生まれ育ち、困難な境遇、無敗神話を誇る黒いジャージのレイカーズ。それら全てを気迫で打ち破るジミーという存在に心奪われてしまった。
僕は決してジミーのように実親に捨てられ、ホームレスになってしまった訳ではない。
ただ多くの人達が得られているであろう、経済的・精神的なサポートを家庭から期待できない環境。
それだけではなく不適切な養育の中で、脳機能のいくつかを歪められてしまった。
今現在も、C-PTSDの回復に向けてトラウマケアの治療が欠かせない状態だ。
「何故、このような環境に生まれ、育ってしまったのか」
どうしようもない、どうにもならない問いを抱き続ける僕にとって、たった僅かしか共通点はないけれど。
それでもジミー・バトラーの存在は絶大としか言いようがない。
彼の活躍は、自分の人生の活路のように映っていた。
こんなにもNBAプレイヤーに勇気づけられることがあるのか。
学校にも家庭にも安寧を見いだせない中学生の頃、VHSに録画したNBAの試合を何度も何度も見返していたが、それは現実味のないファンタジーの世界。
あれほど没頭していたのに、カタルシスを得られるようなことは一度もなかった。
もう一つ。僕の中でジミー・バトラーが唯一無二の存在である理由がある。
そのGame5の中継があった日の夜のこと。
それまでの人生でまるで経験したことのない事態に突入する、いわば分岐点。
”その出来事「X」”とジミー・バトラーは僕の中で2つで一つ。
所謂条件付けというやつだ。一方が一方を反射的に想起させるものになってしまった。
その「X」というのも、「僕の生まれ育ち」と切っても切り離せないようなこと。
もう3年も前のFinalsなのに、ジミーを見る度に「X」がリフレインしてしまう。
辛い。それでも大好き。
ジミー・バトラーが大好きだ。
執着
「誰かに認められたい」という欲求が、兎にも角にも希薄だ。
虐待されていた人は不安定な愛着のスタイルを有することが多いらしい。
嫌なことをしてきた親に対してなお愛着や承認欲求を抱く、ということがイマイチ腑に落ちない。
自分といえば他者への愛着が極めて薄く、自己愛も一般的なそれと大きく異なる。
愛着のスタイルをざっくり一言で表すと「虚無」。
他者の自由と尊厳については尊重する真っ当なリベラリストを自認しているが、自分自身に対しては「モノ」扱いしているきらいが強い。
無論、自己愛がないわけでもない。ただ多くの人のそれとは結構違う。
自分自身について特に執着も持てなければ、他人に対してもそんな感じなのだろう。
血の繋がった、戸籍上の両親について愛憎というのはほとんどない。
「何故産み出したのか」という出生そのものへの憎悪があるだけで、それ以外の感情はまるでない。
彼らが路上で野垂れ死んでようが、「死体が転がってるな」程度の感想しかないだろう。
そんな僕にも過去にただ一人、執着といった感情が芽生えた人物がいた。
その人との関わりが途絶えてから2年ほど経過し、その関係性を言語化・分析してわかったことがある。
人生で初めての、唯一の「無条件に近い愛と承認」を与えてくれた、ということ。
あれが母性というものなのだろう。
ただ僕が未熟だったせいか、実存的な病に対する「魂の救済」には至らなかったけれど。
時間が経てば経つほど、「オルタナティブな実親」という偶像化が進行している。
ああ、これが「あの人に褒めてもらいたい」「認めてもらいたい」「赦してもらいたい」といった感情か。
それ以降、それに匹敵する愛着や執着が芽生えたことはない。
ただ、そういった感情が僕の中にもあったのだ、と気がつけたのは大きな収穫だった。