僕の大好きなジミー・バトラー
2020年10月10日
NBA FINALS GAME 5
無敗神話を持つ黒いジャージをまとったレイカーズを撃破した、あの姿が今でも脳裏から離れない。
幼少期から何の心配もなくバスケットボールに邁進できる環境で親からの金銭的、精神的なサポートは「当たり前」といったところか。
一方で13歳にして母に捨てられホームレスになったーー。そんな波乱に富んだ生い立ちでありながらも、Finalsの舞台に立ったプレイヤーがそこにいた。
その姿、気迫、パフォーマンスにただただ息を呑んだ。
ジミー・バトラー。それも僕と同じ1989年生まれ。
NBAの歴代TOP3プレイヤーとされるレブロン率いるレイカーズ。格上のレイカーズをほぼ個人のオフェンス力で撃破。
生まれ育ち、困難な境遇、無敗神話を誇る黒いジャージのレイカーズ。それら全てを気迫で打ち破るジミーという存在に心奪われてしまった。
僕は決してジミーのように実親に捨てられ、ホームレスになってしまった訳ではない。
ただ多くの人達が得られているであろう、経済的・精神的なサポートを家庭から期待できない環境。
それだけではなく不適切な養育の中で、脳機能のいくつかを歪められてしまった。
今現在も、C-PTSDの回復に向けてトラウマケアの治療が欠かせない状態だ。
「何故、このような環境に生まれ、育ってしまったのか」
どうしようもない、どうにもならない問いを抱き続ける僕にとって、たった僅かしか共通点はないけれど。
それでもジミー・バトラーの存在は絶大としか言いようがない。
彼の活躍は、自分の人生の活路のように映っていた。
こんなにもNBAプレイヤーに勇気づけられることがあるのか。
学校にも家庭にも安寧を見いだせない中学生の頃、VHSに録画したNBAの試合を何度も何度も見返していたが、それは現実味のないファンタジーの世界。
あれほど没頭していたのに、カタルシスを得られるようなことは一度もなかった。
もう一つ。僕の中でジミー・バトラーが唯一無二の存在である理由がある。
そのGame5の中継があった日の夜のこと。
それまでの人生でまるで経験したことのない事態に突入する、いわば分岐点。
”その出来事「X」”とジミー・バトラーは僕の中で2つで一つ。
所謂条件付けというやつだ。一方が一方を反射的に想起させるものになってしまった。
その「X」というのも、「僕の生まれ育ち」と切っても切り離せないようなこと。
もう3年も前のFinalsなのに、ジミーを見る度に「X」がリフレインしてしまう。
辛い。それでも大好き。
ジミー・バトラーが大好きだ。